コメントで、あなたはなんでくすぶっているのですか?という質問を受けたので、今できる範囲で思いつくままに整理してみます。
タグは、id:four_seasonsの方から選んだ懐かしのタグをつけてみた。


今までid:four_seasonsという別アカも含めて断片的に書いてきたことはあるかと思いますが、まとめて書いたことは意外となかったかもしれず、また、肝心なところは恥ずかしいのであえて書いてなかったりするので、コメントなのでみんなまじめには読んでないだろうという考えのもとに(コメントに書くつもりだったが、長いので本文に書くことにした)今まで書いてない話も含めて書いてみたいと思います。


僕がいつから数学に特に興味を持つようになったかは詳しくは忘れましたが、高3のときには既に、数学をかなりがんばって専門的にやろうと思っていました。とは言っても、世の天才ほど数学大好きすぎて三度の飯より数学、というほどにはやっておらず、具体的には数学オリンピックも予選落ちしました(そのための勉強もあまりしていなかった)し、受験勉強以外では大学への数学の「学力コンテスト」をがんばったり、例によって高木貞治『解析概論』の最初の方を読み進めていたりしました。ただ、「自分は天才たちに比べて遅れている」という意識を持っていたのは確かで、高3の夏休みにとある理数系の高校生が集まるイベントに参加しましたが、そのときもinferior complexを感じて、夜トイレにこもって解析概論を読んだり、そのセミナーの帰りに明倫館書店でサイエンス社の「解析演習」と「線形代数演習」を買ったりしました。
ただ、今思うと、高3のときから勉強はちゃんとはやっていなかったと思います。
後に述べますが、根本的には僕が「くすぶって」いるのは、勉強の仕方を知らないからだと思います。毎日継続する、ということが今もできていません。
で、大学に入って、「僕は人より速い進度で数学を勉強するぞ」という気でいました。今書いていて気づきましたが、高3の夏休みには焦っていたのに、大学に入った当時、4月はその危機感は薄れていたような気がします。思うに、非モテとかそういうどうでもいいことに血道を上げていた(笑)のでしょう。
さて、これは大学の新入生にはまったくお勧めできず、やはり後から考えれば大学生活で最悪の選択だったと思いますが、講義を休んででも数学を勉強しなければ、と思うようになります。その1つの大きなきっかけは、必修の力学と熱力学、その他に相対論(この授業は意欲的な理数系の学生が力試しとしてとるような雰囲気があった)などの物理系の授業では、数学の授業では「習っていない」数学の概念(偏微分とか)がどんどん出てくるので、それらを勉強する前に、自分で自習しなければ(具体的には自習している本でそこまで読み進めなければ)いかん、と思った、というのがあります。今から考えれば、物理なんてそのへんの概念を厳密にやってるわけじゃなく、という言い方が物理を馬鹿にしすぎならば、少なくとも新入生にそんな厳密な理解を求めているわけはなく、むしろ習うより慣れろで、そういう数学的な概念を実際に使用することで物理的にも、また数学的にも慣れていくことを目指しているわけなのであって、授業に出て適当にやっときゃよかったのですが、当時の僕の考えからすれば授業に出ない、というのはまったく合理的な考え方でした。また、授業に出ない副次的なきっかけの1つとして、必修のフランス語の授業で、「この授業って復習(あるいは予習も?)しなければいけないのか!授業のために勉強しないといけないのか!」ということに気づいて衝撃を受けた、ということもあります。僕の出身中学/高校では、高2くらいまでは先生の授業は聞かず遊んでおり、高3からは受験勉強に集中し始めるので先生の授業を聞かない、というのが慣例となっており(いや実はそうじゃなかったのかもしれないが、少なくとも(非公式な)公式イデオロギーは「そうせよ」と言っていたし、僕はそうしていた)、授業のために勉強する、というのは実に思いもよらないことでした。で、まぁそういうわけで語学も漫然と出ていたらついていけなくなってびっくりしたので、これも休んで勉強しなければ、となりました。でまぁ、書くの疲れてきたというのもありますが、以下略って感じですね。
いやまぁ、一応書くと、まぁ講義休んで自習とかうまくいかないわけですよ。
まず、講義は自習に比べるとすごいスピードで進んでいきますから、まず追いつけません。
それに、やはり講義に出ることで生活のリズムを作らないと、生活がだらけます。勉強とかいう以前に。
それに加えて、僕は1人で勉強する「勉強力」(集中して机に向かい続けること、少しずつでも毎日やること、とかそのへん)が足りなかったこともあり、なんか、全然勉強が進みませんでした。
まぁ1年生の1学期はそんな感じで、その後はずっっっと同じ感じで6年間過ごした、というのが正直なところです。
具体的に単位取得ということで言うと、1年目は夏冬ともに語学の単位が取れず、それは2年生に進むための要件だったため、留年。
2回目の1年生はフランス語は1年目の3月に頑張ったこともあり語学はとれて2年生に進学。
2年生は4学期から数学科の専門科目が入ってきますが、単純化すれば7科目あるが1科目しか取れず。ただ進学はできた。
3年生、2年生4学期科目をとらなきゃーとか思いつつ3年生の必修を落とし、4年生の必修のゼミを履修するための条件がそろわず、来年度で卒業できないことは確定するも4年生には自動的に進学。
4年生に進学する。一応3年生の単位のうち、4年生でゼミを履修するための単位はぎりぎりとる。
2回目の4年生。必修のゼミにほぼ出席せず単位が来ず留年。
3回目の4年生。今。とりあえずゼミは出てます。
という状況。
6年間何してたの?と言われると、正直よくわかりません。
ゲームしたりネットしたりしてつぶした時間も多いと思います。細切れに勉強したりしてますが、なんか、「今学期はやったぞ」っていう感じを得られた学期はなかったです。
まぁクズですね。
ただ、大学に入ってから急にクズになったかというと、実はそうでもなくて、実は前からそうなる要因はあった、というのが最近の学界の通説です。むろん、大学に入ってから変わった面というのを軽視してはいけないと思っていますが。
実際、高校くらいのときも、習い事のエレクトーンを、2chをずっと見ていて離れられなくて休んでしまったり、塾をサボったりそういうことはありましたから。また、学校や塾の勉強に関しても、まじめに取り組んだ経験は皆無で、すべて一夜漬けなどでカバーしていましたし。


というわけで、まとめると、最も大きな要因は、前述の「勉強力」が足りないことと、妙な完璧主義・潔癖さが結合したことにあると思います。後者についてはあまりよく説明していませんが、前述の「物理の前に数学を勉強し終えなければならない」という強迫観念にも似た考えもそうですし、適当に勉強して単位をとるのは嫌で、完璧に勉強できなかったのなら、未受験の方がマシ、というような感覚、1箇所わからないところがあったら、恥ずかしくてゼミに出席できないという感覚など、色々なこだわりが生活の各所で邪魔をしています。現にこの5/8に書いた或る課題をやれなかった、という一件に関しても、日曜からでも、月曜からでも、あるいは火曜当日にでも、不完全でもなんでも、とりあえずやれるだけやって出せばよいのに、「時間をかけてきちんとやれなかった」というのが心理的に足を引っ張って、もう何もできない状態に追い込まれてしまいます。この完璧主義は、数学の勉強をするにあたっても、妙に細かいところにまで完全に納得するのを求める、という形で作用し、数学の勉強がなかなか進まない一因にもなっていますが、これに関しては、数学という学問の性質上、むしろプラスになる面もあると思っていますし、そこまで改める必要はないとは思っています。ただ、ある程度概念を省略して素早く思考できるようになることも数学力の一部だ、ということに、ごく最近気づくようになりましたが。
ただ、昨日ウメハラの本に関して指摘したように、この「完璧主義」は矛盾しているところもあります。現に、高校までは一夜漬けで完全にその場しのぎでやっていたことと矛盾するではないかと。
この点に関しては、複数解釈があります。まず、人間なんだからそりゃ矛盾するさ、という尤もな解釈がひとつ。
また、高校までは、一夜漬けやらで我慢していたけど、本当は完璧なやり方を求めていた、という解釈がひとつ。現に、数学に関して、高校時代、「今はこの厳密でないやり方で我慢するけど、大学に入ったらおもいっきり厳密にやるぞー」と意識的にも考えています。
そうそう、この解釈に関連して言えば、「大学に入ったらこれをやるぞ」とあまりに高い理想を持ちすぎて、「近い将来の自分が抱えなければいけない現実の問題」という捉え方ができていなかったために、その高すぎる理想が達成できずに挫折した、という面もあると思います。
閑話休題
高校まではそうじゃなかったのに完璧主義を求めていたという矛盾に関して、最後の最も示唆的で不安を抱かせる解釈は、本当はこの完璧主義は見せかけで、別の心理的なはたらきに対する偽の説明だ、というものです。
脳は嘘をつくものであり、まして自分自身に関する説明など、ほとんどあてにならないとも言えます。実際、例えば再びで恐縮ですが5/8の課題に課題を出せなかった件について言えば、先程完璧主義的な心理を前提にした説明をしましたが、直感的にこの説明はやや「かっこつけた」説明で、実際には、「まったくどう手を出していいかわからん」という思いと、「このまま投げ出してしまいたい」という、後述することになる諦めへの慣れの感情が強かった気がします。
ただ、僕に完璧主義がまったくないということはなく、やはり完璧主義が強すぎる面はあると思います。ただ、それですべてを説明してしまうのは、どうも見栄を張りすぎだということで、まぁ程度問題ですね。
ということで、完璧主義についてはこんなもんでしょうか。
勉強力が足りないことについては、もうそのままでございます。僕が一番勉強していたのは、小学校の中学受験の勉強だと思うけど、あの頃は親にやらされていたというのが一番大きい。あとは、まぁ問題演習が中心だったから(?)とにかく楽しくてしょうがなかったからなー。うーん。すべての教科が楽しかった。ま、子ども時代ですね。
中学高校は、まぁ一番ひどかった。一番勉強しなかった。大学受験ではまぁ多少勉強したけど、一生懸命やったのは、1回目の夏の東大模試の前の1週間だけで、あとはなー、楽しい勉強しかやってないからなー。受験を極めてはいなかった。まぁ、受験勉強なんて受かればいいから、それでよかったと思うけどね。
まぁ大学に入ってからは…今までやってこなかったから勉強する方法がわからなかったっていうのと、あと、次々とやらなきゃいけないことが増えるのに、自分は何も成長してないっていう焦りもあって、小規模な勉強はあったけど、何だかなぁ、という感じで今に至る、という感じで。これは現在進行形で、また、これから改善しつついきたい課題。
で、この最も大きな要因に加えて、補足的な要因がいくつか。
まず、この大きな要因は、基本的には1年生のときの要因だけど、こういう生活を長く続けたことによる弊害で、諦め慣れてきたということがある。
まず、やらなければいけないことを、やらずにいて、ついには完全にブッチしてしまうっていうのは、ある意味苦しいんだけど、非常な快感も伴うんだよね。これは麻薬みたいなもんで、結構常習性ある。
また、そこまで破滅的な例ではないんだけど、結構地道に勉強とかしてても、「今までもダメだったんだし、今回も途中までは行くけどダメなんだろうなぁ」と学習性無力感のようなものもある。
その他にも、生活習慣の乱れとか、長年ダメ生活を続けるうちに、体がそれに慣れちゃう、ということもある。
これが補足的要因の一。
2つめ。
受験まで、あまり苦労した経験がなかったので、人生を舐めていたっていう部分もある。まぁこれはあまりにわかりやすい図式で、ちょっと本当かな、と思われるけれども、実際そういう面もあると思う。
嫌でも単位は苦労してとらなきゃいけない、というのを実感としてわかっていなかったというか。今でもわかってないけどね。
3つめ。
人によっては、いやこれ「大きな要因」に加えるべきでしょ、と思われるかもしれないけど。
ネット依存。
僕の世代で多少なりともネットに囲まれて育った人でそうじゃない人とかいるのかな?と思われるけど。
実際、ネットをできないと、イライラしてくるからね。


まぁ要因として自覚してるのはそのへんでしょうか。


ここまで読んできて、腑に落ちない人もいると思う。
「色々述べてるけど、そんなことで留年3回もするものかなぁ」とか。
まぁそれはご尤もではあるんだけど、人間、大きな失敗もせずに、子どもの頃から、大人になるまで、朝起きて勉強や仕事して夜寝る、課題はなんだかんだでこなす、最も重要なことには「死なないで」ずっと来るってのは、むしろそっちの方が奇跡に近いというか、ほんの少しのことで順調にはいかなくなると思うんだよね。それは、僕のように自分の性格や心の問題から来る人(もちろん僕の場合幸運で、留年とかいう些細な問題で済んでいる)から、事故や病気で容赦なく命を奪われてしまう人も含めて。まぁだから何だとか偉そうに述べる気はないけど、容易にうまくいかなくなる、という事実は、覚えておくに値する重要なことだよね。


まぁ長々述べてきて、まだまだ述べ切ってない点もあるけど、すべてを語り尽くすというのはどだい無理なことだし、そろそろ疲れてきたので、このへんで終わりにしようと思う。

恥ずかしい。
死んでしまいたい。


昨日〇〇をブッチし、そして今日の〇〇の〇〇もサボり、〇〇と〇〇から〇〇という〇〇を〇〇、剰え〇〇を〇〇に〇〇とか考えていた件の話である。
要因のひとつは、間違いなく、この今日の〇〇のために、「〇〇を〇〇」という課題をやってなかったことにある。
この課題は先週の水曜日に出されて、今日火曜日までにやってこなければいけなかったものだが、僕がこれについてどう考えていたかといえば、
木・金 no idea
土 あ、ヤバイ、明日になったらかなり切迫してやばくなる
日 あー今日やらなかったらもう平日だしほぼやる時間ないわどうしよう…
月 ああああああああああああああ
火 …………………………………………………………
てな具合。
木曜の時点で同じ条件の複数の可能世界を用意したとして、僕が課題をやるに至る可能世界があったかというと、no chanceとまでは言わないが、かなり少なかったと思う。
しかし今日適当にでっちあげるという線もあった。
実際、「今日でっち上げて出る」でもなんでもいいからとにかく出て、クォリティとかはその後に考える、という方法しか社会に自分を適合させていく方法はないと思う。


買った本・読んだ本
梅原大吾『勝ち続ける意志力』小学館新書、2012年
ざっと読んだ。
介護の仕事について、ウメハラ自身が相反する感情を抱いているように見受けられ、興味深い。
1つは、「心の傷を癒やし」、「やり甲斐や喜び」*1を感じ、さまざまな洞察を与えてくれた、という肯定的な評価。
一方で、自分が必要とされているかもはっきりせず、自分の特長を出すことができず、何より、自分が最も得意とし努力してきたことではない、という否定的な評価。この2つが同時に表明されているように思う。
おそらく、人生の色々なことは、このような二面性を帯びていて、だからこそ、意外とどんなことでも人間は適応していくのだろう。
だから、ウメハラが介護の仕事をずっと続けて、ゲームに復帰しなかったようなことも、彼が「勝負の世界以外でも生きられる」と発見しているように、十分ありえたことなのだろう。ただウメハラの場合は、格闘ゲームという圧倒的なものがあって、そこにたまたま戻ってくることになったということでね。


介護の仕事に対する評価の他にも、「自分は勉強が得意なのか」「結局、『人読み』はするのか」ということに関して、矛盾とまでは言えないまでも、やや異なる2つの見方がともに表明されていることがある。
が、人間誰しもいっけん矛盾する考えを一つのことがらに関しており、著書を書くにあたって「作って」いるわけではない点は好感が持てる。

*1:どうでもいいけど、自分で2回連続で用いて思ったが、この文中の表現を括弧で括って引用するやり方、正確性を期すためには重要だと思うが、あまりやりすぎると嫌味な感じになるよね。

買ったマンガ
ヒジリレイ『淫牝(エロスケ) 』メガストアコミックスシリーズ、2008年
吉川かば夫『巨乳至上主義』ホットミルクコミックス、2007年
赤銅茉莉『マシマロすてでぃ』メガストアコミックスシリーズ、2008年
武田弘光『ツンデロ』メガストアコミックスシリーズ、2008年

起きると、昨日は少しよくなっていたように感じられた風邪がやや勢力を増したように感じられた。
だらだらしていたらもうバイトに行く時間になっていた。
本来この日はバイトを入れていないのだが、臨時の、割と単純作業に近いバイト。
「今年度は本気で卒業しないといけないので、バイトは週1コマまででお願いします(キリッ」と学期の初めにバイト先の方に宣言していたのだが、「この日入ってくれる?別に無理しなくてもいいのよ、今年度は週1回(キリッなんでしょ?w」的なことを言われ、そう言われると、気恥ずかしくなり「まぁ、たまにはやってもいいですけど…」ってな感じでなしくずし的に引き受けることになったのだった。
やはり、こちらが「これは気合を入れて宣言しなければ」という気負いは、自然と相手にも伝わるものらしい。


で、始まる前は単純作業に近い、とか言って馬鹿にしてたけど、実際のところ、僕はコピー機を使った経験がそんなに多くないので、勉強になった。


夕方から、なんか人と会って話をしなければいけないというリア充企画で気が重い。
風邪気味ということもあり、顔だけ見せて帰ろう、と思っていた(前回は返信せずブッチという非コミュ極まりないことをしていたので、今回は本当にとは言え、「体調不良」という理由で直前にキャンセルするとそれは明らかに来る気ない人ですよ、ということになってしまうので、さすがに来る気はあるところを見せたほうがいいかと思って)が、行ってみるとあまりに人が少なく、また、僕が苦手なタイプの人がいたわけではないので、気が変わって最後まで出席することにする*1


しかし、これ3ヶ月か半年に1回くらい毎回思っているけど、僕はテーマが決まっていて、ある程度使用する言語が近い人相手*2だったら、むしろ饒舌に喋れると思う。テーマが決まっている、というより、論理的に分析せよ、というような状況が得意、とでも言うべきか。別に、そんなに論理的には話せるわけでもないけど。場の問題設定として、「分析せよ」というような課題だとありがたい、というような意味か。


以下はどうせ来ないし恥ずかしいので削除しました。

*1:ここには書かなかった要因もある

*2:親戚のおじさんとかは無理。まぁ幅広く対応できるのがコミュ力高い人だろうが

昨日、今週のゼミを終えたのが相当うれしかったらしく。
昨日寝る前はtwitterで吠えて気持ちよくなり、今日起きてからもtwitterで吠えて気持ちよくなり、その後新丸ビルの豆花飯荘の麻婆豆腐ランチを食い、区立のスポーツジムにも行った。
要するに遊んでました、と。リア充すぎワロリエンヌ。
いやそれにしても豆花飯荘の麻婆豆腐うますぎ。あの香辛料の妙味は、他の麻婆豆腐が食えなくなるくらい。
またセットのスープも風邪の時にお母さんが出してくれたおかゆを思い起こさせる優しい味なんだわさ。
ジムで体を動かしたら、なんか感覚が研ぎ澄まされたような気がする。気のせいにしても悪くない。
まぁ一応家に帰ってからゼミの勉強をちょろっとした。
はーあ、明日は忙しく、あんまり勉強する暇がないな。


まぁ、昨日・一昨日は日記書いてないけど、twitterで色々吠えたんで、そちらで勘弁して下さいということで。
なんか、ゼミ終わってからかなり脳汁出て、結構冴えてたと思います。別に頭良くなったというわけではなく、いい意味でも悪い意味でも僕らしくアイディアが出せた、というか。
というわけで、今日は遊んでた、と言っても、先週の木曜とは違ってポジティブな意味だから。ってことで許して下さい。

買った本
黒咲練導放課後プレイ』電撃コミックスEX、2009年
僕が買えるギリギリ。


読んだ本
丸山圭三郎『言葉とは何か』ちくま学芸文庫、2008年
シケプリみたいな薄い本。


昨日夜が低調だったので起きてテンション上がらず。
のたりのたりとしてから午後からバイトに行く。
喫茶店で勉強。
帰ってからもちょっとはやる。
NHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』を見る。東日本大震災で被災した人を色々支援してる、北九州でホームレス支援をやってる人の話。
生活の基盤を取り戻せるよう支援したり、北九州に非難してきた家族を支援したりしていた。
自らの人生の主要な活動の一つとして、その活動では利益を得ず(NPOとしてやっているようだから、それによっては収入を得ていないだろう)、苦しい状況にある他人を支援する、というのはどういう意味を持つのだろう。
その人にとって、あるいは社会にとって。
僕も、バイトで、一応「支援」と名のつくものに関わっているので、そのへんは気になる。哲学的にもね。
具体的には、この人が関わることによって「救われる」人たちは、困ってる人全体のほんの一部にすぎない、ということについて、どう考えるか、という。
僕自身は、例えば、国政や地方自治体の選挙は、僕自身の一票によって何かが変わるということは、ごく小さい確率でしか起きないので、僕が投票に行く「意味」はほとんどないと思っている(思っている、というか、事実だ)けど、しかし、それが義務だから行っている。一種の規範であるがゆえに、投票している。
それと同様に、募金とかバイトを通じて行なっている「支援」(特定されるのも嫌なので、曖昧な書き方をしている)(といっても給料を得ているので、純粋なバイトとして見ることも可)も、僕が何かをしても何も(世界は)変わらない(ローカルには変わる。僕の関わっている仕事の単位では、僕がこのバイトを止めると、実際問題として誰かが困る事態も(少なくとも欠員が補充されるまでは)生じる)のだが、そこに何らかの価値があると思って、やっている。


ただ、僕の場合は、生活のごく一部を割いてるだけで、それを主な活動にする気はないのだけれど、窮地にある人の支援にあそこまでのリソースを割く、というのはいったい社会的に、っていうかより興味深いのは、個人的にどのようなモチベーションがあるのだろう、と、そこが気になった。
いや、やはり、個人的動機も気になるし、哲学的にも気になるな。


「善行は善行でいいじゃん、『哲学的に』ってどういう問題意識なのかわからない」と思われるかもしれないが、実際、「困っている人、危機にひんしている人を助けることは、どのような行為だと位置づけられるのか、そもそもそれは必要なのか、それが推奨されるとすれば、どの程度推奨されるのか」ということは、まさに今この瞬間自分が何をすべきかに直接関わる問題だと言える。例えば「命を助けることは全てに優先される」というのであれば、直ちに僕は毎日極貧の生活を送り、残りの金を全てアフリカの子どもたちに寄付する必要が出てくるわけだが、「その通り。そうすべきだ」という人は実際にはほとんどいないわけで、「自分自身の快適さは、他人の命よりは大事にしてよい」とみな思っているわけだ。
しかし、「命は全てに優先されるか?」と街行く人に聞いてみたら、「それはその通り」と答える人も多いだろうことは容易に予想できる。
まぁ、こういう森博嗣的屁理屈(屁理屈という言葉は嫌いだが、文学上の効果を狙ってあえてdirty wordを使ってみた)は実はやはり極論で、実際のところ、「自分の快適さ>他人の命」という信念をexplicitに抱いている人は少なく、多くの人はそのようなことなど「考えたこともない」というのが実際のところであり、人間は合理的推論者・行動者などとは程遠いわけですね。
とは言え、何かを思考しようとしたらやはり合理的に考えるしかないので、そうなると、どの程度「善行」すべきか、というのは火急の課題になってくる。


が、あまりに重い課題であり、夜は短いのでもう寝なければならない。