買った本
黒咲練導放課後プレイ』電撃コミックスEX、2009年
僕が買えるギリギリ。


読んだ本
丸山圭三郎『言葉とは何か』ちくま学芸文庫、2008年
シケプリみたいな薄い本。


昨日夜が低調だったので起きてテンション上がらず。
のたりのたりとしてから午後からバイトに行く。
喫茶店で勉強。
帰ってからもちょっとはやる。
NHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』を見る。東日本大震災で被災した人を色々支援してる、北九州でホームレス支援をやってる人の話。
生活の基盤を取り戻せるよう支援したり、北九州に非難してきた家族を支援したりしていた。
自らの人生の主要な活動の一つとして、その活動では利益を得ず(NPOとしてやっているようだから、それによっては収入を得ていないだろう)、苦しい状況にある他人を支援する、というのはどういう意味を持つのだろう。
その人にとって、あるいは社会にとって。
僕も、バイトで、一応「支援」と名のつくものに関わっているので、そのへんは気になる。哲学的にもね。
具体的には、この人が関わることによって「救われる」人たちは、困ってる人全体のほんの一部にすぎない、ということについて、どう考えるか、という。
僕自身は、例えば、国政や地方自治体の選挙は、僕自身の一票によって何かが変わるということは、ごく小さい確率でしか起きないので、僕が投票に行く「意味」はほとんどないと思っている(思っている、というか、事実だ)けど、しかし、それが義務だから行っている。一種の規範であるがゆえに、投票している。
それと同様に、募金とかバイトを通じて行なっている「支援」(特定されるのも嫌なので、曖昧な書き方をしている)(といっても給料を得ているので、純粋なバイトとして見ることも可)も、僕が何かをしても何も(世界は)変わらない(ローカルには変わる。僕の関わっている仕事の単位では、僕がこのバイトを止めると、実際問題として誰かが困る事態も(少なくとも欠員が補充されるまでは)生じる)のだが、そこに何らかの価値があると思って、やっている。


ただ、僕の場合は、生活のごく一部を割いてるだけで、それを主な活動にする気はないのだけれど、窮地にある人の支援にあそこまでのリソースを割く、というのはいったい社会的に、っていうかより興味深いのは、個人的にどのようなモチベーションがあるのだろう、と、そこが気になった。
いや、やはり、個人的動機も気になるし、哲学的にも気になるな。


「善行は善行でいいじゃん、『哲学的に』ってどういう問題意識なのかわからない」と思われるかもしれないが、実際、「困っている人、危機にひんしている人を助けることは、どのような行為だと位置づけられるのか、そもそもそれは必要なのか、それが推奨されるとすれば、どの程度推奨されるのか」ということは、まさに今この瞬間自分が何をすべきかに直接関わる問題だと言える。例えば「命を助けることは全てに優先される」というのであれば、直ちに僕は毎日極貧の生活を送り、残りの金を全てアフリカの子どもたちに寄付する必要が出てくるわけだが、「その通り。そうすべきだ」という人は実際にはほとんどいないわけで、「自分自身の快適さは、他人の命よりは大事にしてよい」とみな思っているわけだ。
しかし、「命は全てに優先されるか?」と街行く人に聞いてみたら、「それはその通り」と答える人も多いだろうことは容易に予想できる。
まぁ、こういう森博嗣的屁理屈(屁理屈という言葉は嫌いだが、文学上の効果を狙ってあえてdirty wordを使ってみた)は実はやはり極論で、実際のところ、「自分の快適さ>他人の命」という信念をexplicitに抱いている人は少なく、多くの人はそのようなことなど「考えたこともない」というのが実際のところであり、人間は合理的推論者・行動者などとは程遠いわけですね。
とは言え、何かを思考しようとしたらやはり合理的に考えるしかないので、そうなると、どの程度「善行」すべきか、というのは火急の課題になってくる。


が、あまりに重い課題であり、夜は短いのでもう寝なければならない。