昨日はやや調子に乗りすぎたか。
と朝起きて思う。朝っていつもそうね。


口頭試問。
自分の前の受験者の人が30分くらいかかってびびる(僕のとは別のグループの研究室を志望する人はそこの教員がちゃんと「試問」するのかも)が、自分のは和やかに。
単位落とさないようにね、と言われて、ありがたくも、恥ずかしいやら情けないやら(その後、試験終了後偶然構内のコンビニの前で会って同様のことを言われた)。


しかし、まぁ率直に言って、だいたいの場面において、世の中の人は想定より優しいな。
去年辞退し、連絡も遅かった経緯から、「はっきり言って、君を合格させる気はないから」と冷たく言われる、という想定までしてあったのだが。


試験終了後は、観光で来たわけじゃなし、別に見るものもないか、と思って、図書館で勉強したりして適当に時間をつぶして帰る。
2日連続早起きできて、試験もできたし、モチベ上がったので、明日からがんばろう。

院試など

はーあ、疲れた。
まず朝7時に起きて夜までずっと活動っていうのがレアすぎるからね。
ただ、人間ってすごいなと思うのは(などというのは大げさすぎるかもしれないが)いつも10時過ぎて起きてんのに、寝坊したらアウトというこの大事な局面でワンチャンつかまえてキッチリ起きてくるっていうのがね。まぁ社会生活をちゃんとこなしてる人はもっと厳しい条件も難なくクリアできるんだろうけど。
しかし、さっき括弧内で留保つけたけど、やっぱ比類ないことだと思う。
それはさておき毎朝起きるべきだな。

というわけで院試でした。
しかし去年受かって留年で辞退した試験をまた受けるってモチベーションがなすぎてヤバかった。しかも、去年「こんなん簡単すぎやろ」と思ったからなおさら。
しかし、一昨日くらいにようやく重い腰を上げて去年の問題や過去問見たら、「簡単すぎ」ってのは言い過ぎだろって感じでマジビビった。まず、10個程度の分野の問題から3つを選択して解答せよっていう試験に対して3つの分野の用意しかしないとか危なすぎワロール。
あと、去年は、僕にしては準備をちゃんとして万全の状態で挑んだイメージでいたけど、去年準備のために読んだ本を見たら、ここまではやったぞ、と自信持っていた箇所は第一章のほんの最初だけで、やっぱ別に全然準備できてなかったことがわかった。
たぶん、この認知の歪みは、あんま準備しなかったのに試験の出来がよかったから調子に乗ったのだろう。まぁ僕の人生ですねっていう。留年2回(去年の時点で)してたのに人間的成長が見られなすぎてヤバい。

まぁさておき、そういうことを踏まえて、今日の試験は、「全部解けなくても大丈夫、3問中2問ちゃんと解けば受かるぞ」と思って臨んだのだった。
さて始まってみると、なんか難化してるっぽい。まず1番線形代数が、去年も含めて例年何も考えないで解ける問題が来るのに、今年は(僕が不勉強なだけだろうが)少し考える必要があった*1。しかし、3時間のうち最初の50分ほどかけて半分以上解いて残りの方針も立ったのがよかった。まぁ難しくはないとは言え焦ると解けないパターンのやつなので、落ち着けてよかった。
問題8オートマトン理論へ。
まぁ普通に解ける。
ただ、「ゴールするとその時点でゲーム終了」という点は見逃しがちなので注意。やっぱオートマトンはおもろいからちゃんと勉強しよう。
問題4数理論理学へ。ⅠとⅡの選択だが、Ⅰがよく読むのもめんどいほど大変そう(ただ、経験から言ってこういうめんどそうな問題は見た目だけでじっくり取り組めば実際には簡単だと思う)だが、よく見るとⅡが、such a basic proof that we have already "known"だったので、それをただ書いてすぐ終わり(というのは少しかっこつけすぎで、(3)は少し考えた)。

ところで、僕は今までは、数学のテストなどは「ど馬鹿でも分かるように書く」がモットーで、ギャップがほとんどないどころか何をどう使ったのか一目瞭然、という答案を書こうと心がけていたのだが、この問題に関しては、相手が数学のこと分かってるつもりで書いた。このことは、成長した、と言ってもいいと思う。数学的に、
というより数学的人間として?

1時間残っていたので問題1に戻って30分かけて解く。スペースが非常に足りなくなり、最後ほぼ採点者からは論理展開が不明であり、かつ変数の値によって3つに場合分けするというめんどい問題で、またかなり煩雑な方法で解いてしまったのでかなり答えは怪しいのだが、一応残りの時間の見直しと試験後の検討によればおそらく合っていると思う。
ということでまぁペーパーテストの成績は問題ないと思う。
まぁ明日の口頭試問もあるんだけれども。まぁ去年みたいな形だったら、方針としてはあまり卑屈にならず、基本的に本当のことを述べつつかつ将来に希望を持たせる(自分にも相手にも)感じで。
もし去年とは大きく変えてきて、ガチ学問的試問だったら…
その時は今更じたばたしてもしょうがないw
まぁいずれにせよ気楽に考えてます。

追記
今年の問題は、プログラミングは知らんが、離散数学・数理論理学Ⅰは、information-oriented studentには、やや難しかったのではないか。math-or-logic-oriented student向け問題と比べると。
まぁ何が言いたいかって。ラッキー、ということくらいだけど。

*1:しかしあとで冷静になると、確かに例年の問題よりは難しいが別に手が止まる局面はない問題だった

少なくとも日本では政治に関しては、それが「正義」という概念と何らかのつながりを持つとはほとんど考えられていないので、オリンピックがこうして例えば誤審問題や無気力試合問題を通じて*1人々に哲学的と呼びうるような問題を考える機会を与えているのは実に驚くべきことであり、いかにオリンピックがべらぼうなイベントかがわかる。
他にこのようなイベントはない…と言おうとしたが、まぁサッカーのワールドカップなどもあるか。しかしやはりここまでの規模のものはまれだ。
ということで無気力試合問題について今ちょっと考えている。

*1:と、今であれば誰にでも通じるだろうと思ってこのように書いても、例えば4年後に読むとどの「問題」なのか忘れているものだ

読んだ本*1
ディクスン・カー(井上一夫訳)『皇帝のかぎ煙草入れ』創元推理文庫、1961年
ほとんどネタバレはしない。




メインのトリックは、まぁ騙されたのでわりと面白いと思った。が、江戸川乱歩が絶賛したというけど、そこまでじゃない。
が、全体的に古臭く(特に貞操観念に関する諸々、これは話全体の筋とも密接に絡んでいるので)、今これを是非読めと人に薦めるかというと、別に薦めない。

*1:実際に読んだのは5月7日

コメントで、あなたはなんでくすぶっているのですか?という質問を受けたので、今できる範囲で思いつくままに整理してみます。
タグは、id:four_seasonsの方から選んだ懐かしのタグをつけてみた。


今までid:four_seasonsという別アカも含めて断片的に書いてきたことはあるかと思いますが、まとめて書いたことは意外となかったかもしれず、また、肝心なところは恥ずかしいのであえて書いてなかったりするので、コメントなのでみんなまじめには読んでないだろうという考えのもとに(コメントに書くつもりだったが、長いので本文に書くことにした)今まで書いてない話も含めて書いてみたいと思います。


僕がいつから数学に特に興味を持つようになったかは詳しくは忘れましたが、高3のときには既に、数学をかなりがんばって専門的にやろうと思っていました。とは言っても、世の天才ほど数学大好きすぎて三度の飯より数学、というほどにはやっておらず、具体的には数学オリンピックも予選落ちしました(そのための勉強もあまりしていなかった)し、受験勉強以外では大学への数学の「学力コンテスト」をがんばったり、例によって高木貞治『解析概論』の最初の方を読み進めていたりしました。ただ、「自分は天才たちに比べて遅れている」という意識を持っていたのは確かで、高3の夏休みにとある理数系の高校生が集まるイベントに参加しましたが、そのときもinferior complexを感じて、夜トイレにこもって解析概論を読んだり、そのセミナーの帰りに明倫館書店でサイエンス社の「解析演習」と「線形代数演習」を買ったりしました。
ただ、今思うと、高3のときから勉強はちゃんとはやっていなかったと思います。
後に述べますが、根本的には僕が「くすぶって」いるのは、勉強の仕方を知らないからだと思います。毎日継続する、ということが今もできていません。
で、大学に入って、「僕は人より速い進度で数学を勉強するぞ」という気でいました。今書いていて気づきましたが、高3の夏休みには焦っていたのに、大学に入った当時、4月はその危機感は薄れていたような気がします。思うに、非モテとかそういうどうでもいいことに血道を上げていた(笑)のでしょう。
さて、これは大学の新入生にはまったくお勧めできず、やはり後から考えれば大学生活で最悪の選択だったと思いますが、講義を休んででも数学を勉強しなければ、と思うようになります。その1つの大きなきっかけは、必修の力学と熱力学、その他に相対論(この授業は意欲的な理数系の学生が力試しとしてとるような雰囲気があった)などの物理系の授業では、数学の授業では「習っていない」数学の概念(偏微分とか)がどんどん出てくるので、それらを勉強する前に、自分で自習しなければ(具体的には自習している本でそこまで読み進めなければ)いかん、と思った、というのがあります。今から考えれば、物理なんてそのへんの概念を厳密にやってるわけじゃなく、という言い方が物理を馬鹿にしすぎならば、少なくとも新入生にそんな厳密な理解を求めているわけはなく、むしろ習うより慣れろで、そういう数学的な概念を実際に使用することで物理的にも、また数学的にも慣れていくことを目指しているわけなのであって、授業に出て適当にやっときゃよかったのですが、当時の僕の考えからすれば授業に出ない、というのはまったく合理的な考え方でした。また、授業に出ない副次的なきっかけの1つとして、必修のフランス語の授業で、「この授業って復習(あるいは予習も?)しなければいけないのか!授業のために勉強しないといけないのか!」ということに気づいて衝撃を受けた、ということもあります。僕の出身中学/高校では、高2くらいまでは先生の授業は聞かず遊んでおり、高3からは受験勉強に集中し始めるので先生の授業を聞かない、というのが慣例となっており(いや実はそうじゃなかったのかもしれないが、少なくとも(非公式な)公式イデオロギーは「そうせよ」と言っていたし、僕はそうしていた)、授業のために勉強する、というのは実に思いもよらないことでした。で、まぁそういうわけで語学も漫然と出ていたらついていけなくなってびっくりしたので、これも休んで勉強しなければ、となりました。でまぁ、書くの疲れてきたというのもありますが、以下略って感じですね。
いやまぁ、一応書くと、まぁ講義休んで自習とかうまくいかないわけですよ。
まず、講義は自習に比べるとすごいスピードで進んでいきますから、まず追いつけません。
それに、やはり講義に出ることで生活のリズムを作らないと、生活がだらけます。勉強とかいう以前に。
それに加えて、僕は1人で勉強する「勉強力」(集中して机に向かい続けること、少しずつでも毎日やること、とかそのへん)が足りなかったこともあり、なんか、全然勉強が進みませんでした。
まぁ1年生の1学期はそんな感じで、その後はずっっっと同じ感じで6年間過ごした、というのが正直なところです。
具体的に単位取得ということで言うと、1年目は夏冬ともに語学の単位が取れず、それは2年生に進むための要件だったため、留年。
2回目の1年生はフランス語は1年目の3月に頑張ったこともあり語学はとれて2年生に進学。
2年生は4学期から数学科の専門科目が入ってきますが、単純化すれば7科目あるが1科目しか取れず。ただ進学はできた。
3年生、2年生4学期科目をとらなきゃーとか思いつつ3年生の必修を落とし、4年生の必修のゼミを履修するための条件がそろわず、来年度で卒業できないことは確定するも4年生には自動的に進学。
4年生に進学する。一応3年生の単位のうち、4年生でゼミを履修するための単位はぎりぎりとる。
2回目の4年生。必修のゼミにほぼ出席せず単位が来ず留年。
3回目の4年生。今。とりあえずゼミは出てます。
という状況。
6年間何してたの?と言われると、正直よくわかりません。
ゲームしたりネットしたりしてつぶした時間も多いと思います。細切れに勉強したりしてますが、なんか、「今学期はやったぞ」っていう感じを得られた学期はなかったです。
まぁクズですね。
ただ、大学に入ってから急にクズになったかというと、実はそうでもなくて、実は前からそうなる要因はあった、というのが最近の学界の通説です。むろん、大学に入ってから変わった面というのを軽視してはいけないと思っていますが。
実際、高校くらいのときも、習い事のエレクトーンを、2chをずっと見ていて離れられなくて休んでしまったり、塾をサボったりそういうことはありましたから。また、学校や塾の勉強に関しても、まじめに取り組んだ経験は皆無で、すべて一夜漬けなどでカバーしていましたし。


というわけで、まとめると、最も大きな要因は、前述の「勉強力」が足りないことと、妙な完璧主義・潔癖さが結合したことにあると思います。後者についてはあまりよく説明していませんが、前述の「物理の前に数学を勉強し終えなければならない」という強迫観念にも似た考えもそうですし、適当に勉強して単位をとるのは嫌で、完璧に勉強できなかったのなら、未受験の方がマシ、というような感覚、1箇所わからないところがあったら、恥ずかしくてゼミに出席できないという感覚など、色々なこだわりが生活の各所で邪魔をしています。現にこの5/8に書いた或る課題をやれなかった、という一件に関しても、日曜からでも、月曜からでも、あるいは火曜当日にでも、不完全でもなんでも、とりあえずやれるだけやって出せばよいのに、「時間をかけてきちんとやれなかった」というのが心理的に足を引っ張って、もう何もできない状態に追い込まれてしまいます。この完璧主義は、数学の勉強をするにあたっても、妙に細かいところにまで完全に納得するのを求める、という形で作用し、数学の勉強がなかなか進まない一因にもなっていますが、これに関しては、数学という学問の性質上、むしろプラスになる面もあると思っていますし、そこまで改める必要はないとは思っています。ただ、ある程度概念を省略して素早く思考できるようになることも数学力の一部だ、ということに、ごく最近気づくようになりましたが。
ただ、昨日ウメハラの本に関して指摘したように、この「完璧主義」は矛盾しているところもあります。現に、高校までは一夜漬けで完全にその場しのぎでやっていたことと矛盾するではないかと。
この点に関しては、複数解釈があります。まず、人間なんだからそりゃ矛盾するさ、という尤もな解釈がひとつ。
また、高校までは、一夜漬けやらで我慢していたけど、本当は完璧なやり方を求めていた、という解釈がひとつ。現に、数学に関して、高校時代、「今はこの厳密でないやり方で我慢するけど、大学に入ったらおもいっきり厳密にやるぞー」と意識的にも考えています。
そうそう、この解釈に関連して言えば、「大学に入ったらこれをやるぞ」とあまりに高い理想を持ちすぎて、「近い将来の自分が抱えなければいけない現実の問題」という捉え方ができていなかったために、その高すぎる理想が達成できずに挫折した、という面もあると思います。
閑話休題
高校まではそうじゃなかったのに完璧主義を求めていたという矛盾に関して、最後の最も示唆的で不安を抱かせる解釈は、本当はこの完璧主義は見せかけで、別の心理的なはたらきに対する偽の説明だ、というものです。
脳は嘘をつくものであり、まして自分自身に関する説明など、ほとんどあてにならないとも言えます。実際、例えば再びで恐縮ですが5/8の課題に課題を出せなかった件について言えば、先程完璧主義的な心理を前提にした説明をしましたが、直感的にこの説明はやや「かっこつけた」説明で、実際には、「まったくどう手を出していいかわからん」という思いと、「このまま投げ出してしまいたい」という、後述することになる諦めへの慣れの感情が強かった気がします。
ただ、僕に完璧主義がまったくないということはなく、やはり完璧主義が強すぎる面はあると思います。ただ、それですべてを説明してしまうのは、どうも見栄を張りすぎだということで、まぁ程度問題ですね。
ということで、完璧主義についてはこんなもんでしょうか。
勉強力が足りないことについては、もうそのままでございます。僕が一番勉強していたのは、小学校の中学受験の勉強だと思うけど、あの頃は親にやらされていたというのが一番大きい。あとは、まぁ問題演習が中心だったから(?)とにかく楽しくてしょうがなかったからなー。うーん。すべての教科が楽しかった。ま、子ども時代ですね。
中学高校は、まぁ一番ひどかった。一番勉強しなかった。大学受験ではまぁ多少勉強したけど、一生懸命やったのは、1回目の夏の東大模試の前の1週間だけで、あとはなー、楽しい勉強しかやってないからなー。受験を極めてはいなかった。まぁ、受験勉強なんて受かればいいから、それでよかったと思うけどね。
まぁ大学に入ってからは…今までやってこなかったから勉強する方法がわからなかったっていうのと、あと、次々とやらなきゃいけないことが増えるのに、自分は何も成長してないっていう焦りもあって、小規模な勉強はあったけど、何だかなぁ、という感じで今に至る、という感じで。これは現在進行形で、また、これから改善しつついきたい課題。
で、この最も大きな要因に加えて、補足的な要因がいくつか。
まず、この大きな要因は、基本的には1年生のときの要因だけど、こういう生活を長く続けたことによる弊害で、諦め慣れてきたということがある。
まず、やらなければいけないことを、やらずにいて、ついには完全にブッチしてしまうっていうのは、ある意味苦しいんだけど、非常な快感も伴うんだよね。これは麻薬みたいなもんで、結構常習性ある。
また、そこまで破滅的な例ではないんだけど、結構地道に勉強とかしてても、「今までもダメだったんだし、今回も途中までは行くけどダメなんだろうなぁ」と学習性無力感のようなものもある。
その他にも、生活習慣の乱れとか、長年ダメ生活を続けるうちに、体がそれに慣れちゃう、ということもある。
これが補足的要因の一。
2つめ。
受験まで、あまり苦労した経験がなかったので、人生を舐めていたっていう部分もある。まぁこれはあまりにわかりやすい図式で、ちょっと本当かな、と思われるけれども、実際そういう面もあると思う。
嫌でも単位は苦労してとらなきゃいけない、というのを実感としてわかっていなかったというか。今でもわかってないけどね。
3つめ。
人によっては、いやこれ「大きな要因」に加えるべきでしょ、と思われるかもしれないけど。
ネット依存。
僕の世代で多少なりともネットに囲まれて育った人でそうじゃない人とかいるのかな?と思われるけど。
実際、ネットをできないと、イライラしてくるからね。


まぁ要因として自覚してるのはそのへんでしょうか。


ここまで読んできて、腑に落ちない人もいると思う。
「色々述べてるけど、そんなことで留年3回もするものかなぁ」とか。
まぁそれはご尤もではあるんだけど、人間、大きな失敗もせずに、子どもの頃から、大人になるまで、朝起きて勉強や仕事して夜寝る、課題はなんだかんだでこなす、最も重要なことには「死なないで」ずっと来るってのは、むしろそっちの方が奇跡に近いというか、ほんの少しのことで順調にはいかなくなると思うんだよね。それは、僕のように自分の性格や心の問題から来る人(もちろん僕の場合幸運で、留年とかいう些細な問題で済んでいる)から、事故や病気で容赦なく命を奪われてしまう人も含めて。まぁだから何だとか偉そうに述べる気はないけど、容易にうまくいかなくなる、という事実は、覚えておくに値する重要なことだよね。


まぁ長々述べてきて、まだまだ述べ切ってない点もあるけど、すべてを語り尽くすというのはどだい無理なことだし、そろそろ疲れてきたので、このへんで終わりにしようと思う。

恥ずかしい。
死んでしまいたい。


昨日〇〇をブッチし、そして今日の〇〇の〇〇もサボり、〇〇と〇〇から〇〇という〇〇を〇〇、剰え〇〇を〇〇に〇〇とか考えていた件の話である。
要因のひとつは、間違いなく、この今日の〇〇のために、「〇〇を〇〇」という課題をやってなかったことにある。
この課題は先週の水曜日に出されて、今日火曜日までにやってこなければいけなかったものだが、僕がこれについてどう考えていたかといえば、
木・金 no idea
土 あ、ヤバイ、明日になったらかなり切迫してやばくなる
日 あー今日やらなかったらもう平日だしほぼやる時間ないわどうしよう…
月 ああああああああああああああ
火 …………………………………………………………
てな具合。
木曜の時点で同じ条件の複数の可能世界を用意したとして、僕が課題をやるに至る可能世界があったかというと、no chanceとまでは言わないが、かなり少なかったと思う。
しかし今日適当にでっちあげるという線もあった。
実際、「今日でっち上げて出る」でもなんでもいいからとにかく出て、クォリティとかはその後に考える、という方法しか社会に自分を適合させていく方法はないと思う。


買った本・読んだ本
梅原大吾『勝ち続ける意志力』小学館新書、2012年
ざっと読んだ。
介護の仕事について、ウメハラ自身が相反する感情を抱いているように見受けられ、興味深い。
1つは、「心の傷を癒やし」、「やり甲斐や喜び」*1を感じ、さまざまな洞察を与えてくれた、という肯定的な評価。
一方で、自分が必要とされているかもはっきりせず、自分の特長を出すことができず、何より、自分が最も得意とし努力してきたことではない、という否定的な評価。この2つが同時に表明されているように思う。
おそらく、人生の色々なことは、このような二面性を帯びていて、だからこそ、意外とどんなことでも人間は適応していくのだろう。
だから、ウメハラが介護の仕事をずっと続けて、ゲームに復帰しなかったようなことも、彼が「勝負の世界以外でも生きられる」と発見しているように、十分ありえたことなのだろう。ただウメハラの場合は、格闘ゲームという圧倒的なものがあって、そこにたまたま戻ってくることになったということでね。


介護の仕事に対する評価の他にも、「自分は勉強が得意なのか」「結局、『人読み』はするのか」ということに関して、矛盾とまでは言えないまでも、やや異なる2つの見方がともに表明されていることがある。
が、人間誰しもいっけん矛盾する考えを一つのことがらに関しており、著書を書くにあたって「作って」いるわけではない点は好感が持てる。

*1:どうでもいいけど、自分で2回連続で用いて思ったが、この文中の表現を括弧で括って引用するやり方、正確性を期すためには重要だと思うが、あまりやりすぎると嫌味な感じになるよね。