買ったマンガ
ヒジリレイ『淫牝(エロスケ) 』メガストアコミックスシリーズ、2008年
吉川かば夫『巨乳至上主義』ホットミルクコミックス、2007年
赤銅茉莉『マシマロすてでぃ』メガストアコミックスシリーズ、2008年
武田弘光『ツンデロ』メガストアコミックスシリーズ、2008年

起きると、昨日は少しよくなっていたように感じられた風邪がやや勢力を増したように感じられた。
だらだらしていたらもうバイトに行く時間になっていた。
本来この日はバイトを入れていないのだが、臨時の、割と単純作業に近いバイト。
「今年度は本気で卒業しないといけないので、バイトは週1コマまででお願いします(キリッ」と学期の初めにバイト先の方に宣言していたのだが、「この日入ってくれる?別に無理しなくてもいいのよ、今年度は週1回(キリッなんでしょ?w」的なことを言われ、そう言われると、気恥ずかしくなり「まぁ、たまにはやってもいいですけど…」ってな感じでなしくずし的に引き受けることになったのだった。
やはり、こちらが「これは気合を入れて宣言しなければ」という気負いは、自然と相手にも伝わるものらしい。


で、始まる前は単純作業に近い、とか言って馬鹿にしてたけど、実際のところ、僕はコピー機を使った経験がそんなに多くないので、勉強になった。


夕方から、なんか人と会って話をしなければいけないというリア充企画で気が重い。
風邪気味ということもあり、顔だけ見せて帰ろう、と思っていた(前回は返信せずブッチという非コミュ極まりないことをしていたので、今回は本当にとは言え、「体調不良」という理由で直前にキャンセルするとそれは明らかに来る気ない人ですよ、ということになってしまうので、さすがに来る気はあるところを見せたほうがいいかと思って)が、行ってみるとあまりに人が少なく、また、僕が苦手なタイプの人がいたわけではないので、気が変わって最後まで出席することにする*1


しかし、これ3ヶ月か半年に1回くらい毎回思っているけど、僕はテーマが決まっていて、ある程度使用する言語が近い人相手*2だったら、むしろ饒舌に喋れると思う。テーマが決まっている、というより、論理的に分析せよ、というような状況が得意、とでも言うべきか。別に、そんなに論理的には話せるわけでもないけど。場の問題設定として、「分析せよ」というような課題だとありがたい、というような意味か。


以下はどうせ来ないし恥ずかしいので削除しました。

*1:ここには書かなかった要因もある

*2:親戚のおじさんとかは無理。まぁ幅広く対応できるのがコミュ力高い人だろうが

昨日、今週のゼミを終えたのが相当うれしかったらしく。
昨日寝る前はtwitterで吠えて気持ちよくなり、今日起きてからもtwitterで吠えて気持ちよくなり、その後新丸ビルの豆花飯荘の麻婆豆腐ランチを食い、区立のスポーツジムにも行った。
要するに遊んでました、と。リア充すぎワロリエンヌ。
いやそれにしても豆花飯荘の麻婆豆腐うますぎ。あの香辛料の妙味は、他の麻婆豆腐が食えなくなるくらい。
またセットのスープも風邪の時にお母さんが出してくれたおかゆを思い起こさせる優しい味なんだわさ。
ジムで体を動かしたら、なんか感覚が研ぎ澄まされたような気がする。気のせいにしても悪くない。
まぁ一応家に帰ってからゼミの勉強をちょろっとした。
はーあ、明日は忙しく、あんまり勉強する暇がないな。


まぁ、昨日・一昨日は日記書いてないけど、twitterで色々吠えたんで、そちらで勘弁して下さいということで。
なんか、ゼミ終わってからかなり脳汁出て、結構冴えてたと思います。別に頭良くなったというわけではなく、いい意味でも悪い意味でも僕らしくアイディアが出せた、というか。
というわけで、今日は遊んでた、と言っても、先週の木曜とは違ってポジティブな意味だから。ってことで許して下さい。

買った本
黒咲練導放課後プレイ』電撃コミックスEX、2009年
僕が買えるギリギリ。


読んだ本
丸山圭三郎『言葉とは何か』ちくま学芸文庫、2008年
シケプリみたいな薄い本。


昨日夜が低調だったので起きてテンション上がらず。
のたりのたりとしてから午後からバイトに行く。
喫茶店で勉強。
帰ってからもちょっとはやる。
NHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』を見る。東日本大震災で被災した人を色々支援してる、北九州でホームレス支援をやってる人の話。
生活の基盤を取り戻せるよう支援したり、北九州に非難してきた家族を支援したりしていた。
自らの人生の主要な活動の一つとして、その活動では利益を得ず(NPOとしてやっているようだから、それによっては収入を得ていないだろう)、苦しい状況にある他人を支援する、というのはどういう意味を持つのだろう。
その人にとって、あるいは社会にとって。
僕も、バイトで、一応「支援」と名のつくものに関わっているので、そのへんは気になる。哲学的にもね。
具体的には、この人が関わることによって「救われる」人たちは、困ってる人全体のほんの一部にすぎない、ということについて、どう考えるか、という。
僕自身は、例えば、国政や地方自治体の選挙は、僕自身の一票によって何かが変わるということは、ごく小さい確率でしか起きないので、僕が投票に行く「意味」はほとんどないと思っている(思っている、というか、事実だ)けど、しかし、それが義務だから行っている。一種の規範であるがゆえに、投票している。
それと同様に、募金とかバイトを通じて行なっている「支援」(特定されるのも嫌なので、曖昧な書き方をしている)(といっても給料を得ているので、純粋なバイトとして見ることも可)も、僕が何かをしても何も(世界は)変わらない(ローカルには変わる。僕の関わっている仕事の単位では、僕がこのバイトを止めると、実際問題として誰かが困る事態も(少なくとも欠員が補充されるまでは)生じる)のだが、そこに何らかの価値があると思って、やっている。


ただ、僕の場合は、生活のごく一部を割いてるだけで、それを主な活動にする気はないのだけれど、窮地にある人の支援にあそこまでのリソースを割く、というのはいったい社会的に、っていうかより興味深いのは、個人的にどのようなモチベーションがあるのだろう、と、そこが気になった。
いや、やはり、個人的動機も気になるし、哲学的にも気になるな。


「善行は善行でいいじゃん、『哲学的に』ってどういう問題意識なのかわからない」と思われるかもしれないが、実際、「困っている人、危機にひんしている人を助けることは、どのような行為だと位置づけられるのか、そもそもそれは必要なのか、それが推奨されるとすれば、どの程度推奨されるのか」ということは、まさに今この瞬間自分が何をすべきかに直接関わる問題だと言える。例えば「命を助けることは全てに優先される」というのであれば、直ちに僕は毎日極貧の生活を送り、残りの金を全てアフリカの子どもたちに寄付する必要が出てくるわけだが、「その通り。そうすべきだ」という人は実際にはほとんどいないわけで、「自分自身の快適さは、他人の命よりは大事にしてよい」とみな思っているわけだ。
しかし、「命は全てに優先されるか?」と街行く人に聞いてみたら、「それはその通り」と答える人も多いだろうことは容易に予想できる。
まぁ、こういう森博嗣的屁理屈(屁理屈という言葉は嫌いだが、文学上の効果を狙ってあえてdirty wordを使ってみた)は実はやはり極論で、実際のところ、「自分の快適さ>他人の命」という信念をexplicitに抱いている人は少なく、多くの人はそのようなことなど「考えたこともない」というのが実際のところであり、人間は合理的推論者・行動者などとは程遠いわけですね。
とは言え、何かを思考しようとしたらやはり合理的に考えるしかないので、そうなると、どの程度「善行」すべきか、というのは火急の課題になってくる。


が、あまりに重い課題であり、夜は短いのでもう寝なければならない。

時間が飛びました。まぁ昨日は雨が降ったのが悪かった。
春らしい陽気。
しかし、桜はもうほぼ散ってしまっている。こんなに早いもんですか。
陽光を完全に無駄にして、室内でしこしこ勉強しなきゃいけないのかと思うと非常に憂鬱になる。
しかし図書館の地下で夕方までしこしこやる。
帰ってからは疲れたのでだらける。親になんか言われてめんどいなぁと思い寝るのが遅くなる。

二夜連続で日付がずれてる*1けど、iPhoneのアプリ「はてなtouch」からだと任意に日付設定できないもんで。あとタイトル設定しないと投稿できないなど不便な点がいくつか。

今日は昨日とは逆に、授業などで拘束時間が長すぎて勉強できなかったわ。

スティーブ•ジョブズは3日、朝起きて今日やることは不本意なこと、やりたくないことだ、というような日が続いたら生活を考え直せ、と言ってたと思うけど、4日くらい続けて今日はダメだったと思ってるからなあ。

一つには、ゼミのマイナスのイメージが大きくて、それを早く忘れたいという気持ちがある。ということでソリューションとしては、土曜はkunenでポジティブな方向にイメージの転換を図るってことで。

*1:のちに直した