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恥ずかしい。
死んでしまいたい。


昨日〇〇をブッチし、そして今日の〇〇の〇〇もサボり、〇〇と〇〇から〇〇という〇〇を〇〇、剰え〇〇を〇〇に〇〇とか考えていた件の話である。
要因のひとつは、間違いなく、この今日の〇〇のために、「〇〇を〇〇」という課題をやってなかったことにある。
この課題は先週の水曜日に出されて、今日火曜日までにやってこなければいけなかったものだが、僕がこれについてどう考えていたかといえば、
木・金 no idea
土 あ、ヤバイ、明日になったらかなり切迫してやばくなる
日 あー今日やらなかったらもう平日だしほぼやる時間ないわどうしよう…
月 ああああああああああああああ
火 …………………………………………………………
てな具合。
木曜の時点で同じ条件の複数の可能世界を用意したとして、僕が課題をやるに至る可能世界があったかというと、no chanceとまでは言わないが、かなり少なかったと思う。
しかし今日適当にでっちあげるという線もあった。
実際、「今日でっち上げて出る」でもなんでもいいからとにかく出て、クォリティとかはその後に考える、という方法しか社会に自分を適合させていく方法はないと思う。


買った本・読んだ本
梅原大吾『勝ち続ける意志力』小学館新書、2012年
ざっと読んだ。
介護の仕事について、ウメハラ自身が相反する感情を抱いているように見受けられ、興味深い。
1つは、「心の傷を癒やし」、「やり甲斐や喜び」*1を感じ、さまざまな洞察を与えてくれた、という肯定的な評価。
一方で、自分が必要とされているかもはっきりせず、自分の特長を出すことができず、何より、自分が最も得意とし努力してきたことではない、という否定的な評価。この2つが同時に表明されているように思う。
おそらく、人生の色々なことは、このような二面性を帯びていて、だからこそ、意外とどんなことでも人間は適応していくのだろう。
だから、ウメハラが介護の仕事をずっと続けて、ゲームに復帰しなかったようなことも、彼が「勝負の世界以外でも生きられる」と発見しているように、十分ありえたことなのだろう。ただウメハラの場合は、格闘ゲームという圧倒的なものがあって、そこにたまたま戻ってくることになったということでね。


介護の仕事に対する評価の他にも、「自分は勉強が得意なのか」「結局、『人読み』はするのか」ということに関して、矛盾とまでは言えないまでも、やや異なる2つの見方がともに表明されていることがある。
が、人間誰しもいっけん矛盾する考えを一つのことがらに関しており、著書を書くにあたって「作って」いるわけではない点は好感が持てる。

*1:どうでもいいけど、自分で2回連続で用いて思ったが、この文中の表現を括弧で括って引用するやり方、正確性を期すためには重要だと思うが、あまりやりすぎると嫌味な感じになるよね。