現代において、伝統的な宗教の多くが説得力を失わざるをえない理由は次に述べる点にあると思っている。
一言で言うと、人間という存在、およびそれに付随して人間に本質的と考えられてきた多くの要素(言語・人格・倫理)は実は偶然的なものであり、本質的ではない、ということ。
人間という種が特別でないということは、まぁダーウィン以来の生物学の進歩による。
アメリカの保守派の一部が進化論を断固として拒絶しているのも、考えてみれば理にかなっている。
この砦を失えばキリスト教の否定まではすぐだ。
倫理とか道徳とかが絶対的なものではない、というのはまぁこれは啓蒙思想とかの時代から既にそう考えられていたはず。
言語の脱神秘化、これがおそらく一番新しいアイディアで、20世紀に始まり現在まで続いている傾向だと思う。
その重要な要素として、言語哲学による考察、認知科学の進展、「言語」というヒトの機能の適応的出自、そして何よりコンピュータの発明とその技術の進歩があげられると思う。
そして、このアイディアを一言で述べると、「言語・思考は自然的*1なものだ」となると思う。
その最も説得力がある実例が人工知能、より広く言うと知性的な働きをするコンピュータプログラムだ。


で、これらの「人間的」なものどもの広い意味での「自然化」がなぜ超自然的なものの否定につながるか、例えば「霊魂は存在するか」問題を例にとると、霊魂は物質的基盤を持たない人格や思考のようなものである、と仮に定義しておくと、「人間の人格や思考は(どうやら)専ら物質的基盤に基づくようである」という事実は、そのような霊魂の存在の蓋然性をより低下させるから。実際、物質的基盤に基づかない人格はではどのような基盤に基づくのか、ということの説明を要求される。
えーと、説明になってるでしょうか?
本質的にはオッカムの剃刀であって、僕の主張は「人格や思考の物質的基盤の解明は剃刀の切れ味を増している」という点にある。
水からの伝言」のような思想はなぜ科学的とは言えないのか、という問題についても、言語がそのような自然的なものである、という観点から説明できる部分もあると思う。
逆に言うと、言語(の遺伝的基盤)や計算や思考について今ほどわかっていなかった20世紀初頭の科学者に「なぜ霊魂が存在しないと思うのか?」と聞いてもこんにちの我々が持っているほどの説得力を持つ説明は期待できないのではないか、と思っている。
ついでにどうでもいい妄想を述べておくと、こういう「20世紀後半の言語や計算の基盤の解明が科学的世界観が超自然的なものを否定する説得力を増している」という主張は、意外と新奇性があり、論文の一本くらいは書けるのではないかと妄想している。まぁ文献読んでないので完全に妄想ですが。


でまぁなんでこんな話を始めたかというと、なんか僕が信じられるような宗教ないのかなってことですよ。


「あーやばい、このままだと不安すぎて死ぬ」と思うようなときって、最終的には宗教的なものがないとかなり厳しい気がする。というか実際、そう思わないとやってられないときがあって仮想的にせよ「神よお助け下さい」と思ってなんとか切り抜けた。
*2


しかしキリスト教とか既存の宗教はまったく信じる気にならない。
それは前述の「人間を本質的だとするのはダメ」ということからほぼ明らかだと思う。


まぁ、時代のめぐり合わせが合えば、僕のような人生経験が乏しく頭でっかちな人間が、何かの拍子に、オウムのような新興宗教に入ってしまうんだろうな、という感じはするが(しかし僕はそれほど頭が悪くはないぞ、という気持ちもある)。


まぁ、結局は自分で教義を作り上げるしかないと思う。

*1:自然主義」の自然

*2:ちなみに楽屋話をすると、最初は、この節を日記の冒頭に持ってきていたのだが、これが先にあると読者は引いてしまい、さっき書いた(僕は)重要な主張だと思っている部分が隠れてしまうので後半に持ってきた。