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有川くん


レポートを受領しました。締切りは過ぎていたのですが、
評価の 対象とし、成績を出すことにしました。



やったーーーーー
超うれしい。


これでレポートを評価した結果として、内容不十分ということで不可になったらすごい萎えるけど。
普通に考えれば「成績=単位」と読み替えていいだろう。
ちなみに前回のエントリで不可になったと書いた科目とは別。
今回のは「記号論」という科目のレポートね。


とにかくレポートを出すのが苦手だ。
前回の日記で、8月はわりと勉強した、と書いたけど、9月に入ってから、9月14日提出のこのレポートを出さねばという重圧で、まったく勉強せずに色々無駄なことに走ってしまった。結果として9月はあまり勉強できていない。
実は、8月にも、夏学期中に出さねばならなかったレポートで未提出のものが2つほどあって、遅ればせながらでも提出すべきだったのだが、この通り僕はレポートという重圧が1グラムでもかかっていると途端に何の生産的な活動もできない状態に近くなってしまうので、「このままでは夏休みが終わってしまうからこのレポートは思い切って放棄しよう。」という戦略的撤退(…………)をしたのであった。


結局その決断はある意味で正しかったとも言えるけど、9月になって現実の重さを味わわされたのだった*1


もちろんこれからも、生きていくためにはこういうレポートをコンスタントに提出していくことが必要なので改善しなければいけないのだけれども。
しかし、これが僕の生きる道と割り切ってもう逃げちゃうのも悪くないかも、とも思わなくもない。
というのも、レポートを放棄した8月とレポートに追われた9月で、あまりにQOLが違ったのでね。
しかし、端から逃げてるのは良くない(若いのに)ので、やはりがんばらねばならない。
力弱い決意だなあ……
そういえば、アメリカ同時多発テロが起きた2001年9月11日にも、夏休みの宿題のレポートをやっていました。まあ夏休み9月7日くらいまでだったけど。




今回の記号論のレポートは、占いを記号論的に見るというテーマに挑戦してみた。
自分なりには結構いい題材だと思うのだけれど、如何せん時間と知識と読んだ参考文献が少ないので、あまり斬新な見方を提示することはできなかったように思う。
意味論 (文庫クセジュ)
占いの謎―いまも流行るそのわけ (文春新書)
の2冊をかなり参考にした。
というか、そもそも記号論という学問がよくつかめなかった。ソシュールは「記号論はこれからできる学問だけど、しかしその位置は定まっている。その学問は言語学をも含む一般的なものになるはずだ」というような内容のことを『一般言語学講義』の中で言ったけれども、その時の状況からあまり進んでいないというような印象を受けた。まあ、これは僕の浅学非才によるものだろうけど。


まあ再び自画自賛だが、レポートのネタは、なかなか完成したとすれば面白そうだなと思うようなテーマを思いついたりするのである。
しかし、そのテーマの大きさの割に始めるのが最速で提出一週間前なので、当然看板倒れに終わるのである。


僕の出身中学・高校では、高校1年で社会科の総まとめとしての論文を課されるのだが、この時に書こうとしたテーマは、東浩紀の『動物化するポストモダン』を元ネタとして、ミステリ界における、新本格以後の、ガジェットはミステリから借用しているけれども従来のミステリの枠からは大きく外れたような作品(はっきり言えばメフィスト賞)を「大きな物語の凋落」とか「データベース化」あたりをキーワードにして解釈しようというもので、まあ視点としてはありがちだけれども(特にデータベース→清涼院流水という図式は誰でも思いつくだろう)、完成すればまあまあ面白いかなというテーマだったんだけどまあ看板倒れでしたね。


ってまあ書かれなかったレポートについて云々するよりほど非生産的な行為もないので書くなり話をしないなりしろよって話ですよね。
しかし若者なんだし、いつか書くぞという夢を語ってもいいじゃんという気もしなくもない、どこかの教授が、「若いうちは尖っていた方がいい、どうせそのうち丸くなるから」と「教養学部報」で言っていたように、などと書いていて気づいたが、


4年前のレポートの話を持ち出すなんて、相当後ろ向きな行為だなあ。
今若者が云々と言ったけれども、とんでもない、昔のことを懐かしがり、そのときにとりえた可能性について空想するのは老人のやることだ。
19歳にして既に老人になりかけている。
危ない。
しかし、僕と同年代の皆さんもそろそろ昔が懐かしくなってくる頃だと思うので気をつけた方がいいですよ。


A氏からB氏が亡くなったという連絡を受けました。
そのB氏のことは、僕はほとんど知らず、A氏によって偶然一度引き合わされたことがあるだけなのですけれども、直接面識のある人が亡くなるというのがまだ2人め(若い人は初めて)なので、さすがに感じるところがあります。


ある人格がまるまる無くなったりすることがあるとは信じがたいことです。アメリカが突然消えてなくなるようなものです。
死後の世界というのを信じたくなる気持ちもわかります。

*1:「味わわされた」が正しい用法で「味あわされた」は誤用。しかしぐぐると味あわされるの方が多い。ただ、語法の間違いについてどのような態度を取ればいいかということについて確固たる意見がまとまっていないので(言葉は移り変わるんだからいいじゃんという考え方といやダメだという考え)、何とも言えませんが。そもそも、文法とは何か、ということについてもちゃんと考えがまとまっていない