2限相対論
マイケルソン・モーレーの実験は、地球がエーテルの中を移動していると考え、エーテルの「風」に関して垂直な方向と、平行な方向の光速のずれ(実際には位相のずれ)を測定するという実験だったわけですが、きわめて精密な実験の結果、違いが生じないことがわかったわけです。
つまり、エーテルが存在するとしても、地球に完全に引きずられている(地球から見て地球の周りのエーテルの速度が0)ということになったわけですが、これはフィゾーの実験の結果を説明するエーテルの「部分的引きずり仮説」(屈折率nの流動する物質中においては、その速度をvとすると、流れに順行する方向の光の速度は(c/n)+v(1-1/n^2)、逆行する方向の速度は(c/n)-v(1-1/n^2)になる)や、光行差の測定の実験から得られた「エーテルが存在したとしても地球にはまったく引きずられない」といった結果には矛盾しているわけです。
この矛盾を解決するために、エーテルに対して速度vで移動している物質は√(1-β^2)(β=v/c)の割合で収縮するという仮説も考えられましたが、まあこれは相対性理論が登場する前夜の「悪あがき」のようなものであったわけです。


「悪あがき」と教員は表現しましたけど、これは天動説において、惑星の複雑な運動を説明しようとした、例の「周天円」みたいなもんでしょうね。つまり、それを用いても説明は一応つくけど、理論が無駄に複雑になってしまって見通しが良くない、という。多分ね。


そこで登場したのが特殊相対性理論で、その基本になる仮定は、
(0)慣性系において時間と空間は一様である
(1)全ての物理法則は任意の慣性形で同じ形をとる
(2)光速度は光源の運動によらず一定で、時や場所に依らない。
(0)はアインシュタインの論文ではわりと暗黙の了解なんだけど、わざと明示的にしてるそうです。
ランダウ・リフシッツ『力学』を読んでいるので、おなじみの仮定ですね。


5限英語テクスト分析
Boasの説によれば、言語によって、obligatory grammatical categories(その文法において必ず含まれなければいけない要素)は違うんだけど、それは、ただ口に出して表されるかそうでないか後外であって、どの言語話者でも、頭の中にはcomplete conceptが存在しているという。
まあ、この文章の筆者によれば、流石にそれは嘘なんだけど、でも、世界を見ているとき、grammaticallyにobligatoryでないような要素についても、もちろん認識している部分もあって、(例えば、単複は、日本語では必ずしも示す必要はないけど、でも日本語話者でも、数の概念がないというわけではないように)その文脈や、伝えたいことによって、色々なスキーマ(単/複とか、受動/能動とかetc.)を使い分けているんですよ、そのような意味において、世界に「イヴェント」とか「状況」が存在しているんではなくて、言語によるフィルターによって発話の内容になるんですよ、という話。
例えば、お魚をくわえたドラ猫をサザエさんが追いかけている絵があるとして、
「女性が猫を追いかけている」
「猫が女性に追いかけられている」
「一匹の猫が若い女性に追いかけられている」
「魚をくわえた猫が走っている。それを若い女性が追いかけている」
「お魚くわえたドラ猫追っかけてユカイなサザエさんが裸足で駆けてく」
……
とか色々な発話がありうるわけですが、どのような表現がなされるか(どのような要素が発話に現れるか)というのは、言語によっても違いますし(例えば日本語だと単複は意識されない、みたいに)、また、話の流れによっても違うわけです。
まあそういう話。